s_松井産業株式会社
会長
松井孝司

松井産業株式会社 会長

1952年埼玉県生まれ。松井産業で「肉屋」として社会人をスタートし、1979年建設部長、1983年取締役、1992年代表取締役社長、2007年より会長に就任。仕事と並行して不動産業、建築業、介護、経営学、コミュニケーションスキルなどの分野で次々と資格を取り、現在は111の資格を持つ。

現在の仕事についた経緯

松井産業は埼玉県の東端、三郷市・吉川市を拠点とし、住宅建設・不動産仲介業を営んでいます。隣接する東京都足立区・葛飾区、千葉県松戸市・流山市も商圏です。またグループ内の社会福祉法人を通じて、介護施設も運営しています。しかし大正11年(1922)、私の祖父が創業した時は、なんと『呉服屋』からのスタートだったのです。当時このあたりは農村でしたから、着物をお売りするお客様も当然農家です。着物の代金を、お金では払えないけど米でなら払えるというお客様も多く、代金代わりに米を受け取ります。蔵の中は米俵で一杯です。それを売りさばいてお金に換えるために、『米穀商』になりました。「呉服屋から米穀商への事業シフト」。それが、第一のイノベーションでした。

仕事へのこだわり

戦後は栄養不足のため、「米からタンパク質へ」という時代を迎えます。松井産業は地元農家に養鶏業への参入をお勧めし、そのための『飼料販売』を始めました。一時は、飼料販売日本一にもなりました。第二のイノベーションです。
さらに養鶏の製品である卵や鶏肉の販路を拡大するため、『卵問屋』『肉屋』『焼き鳥屋』等の店舗を、都内でも次々と開きました。ですから私の社会人生活は、父から命じられた「肉屋の修行」からスタートしたのです。それが当時のイノベーションであり、必要な勉強だったわけです。そのうち取引先の養鶏農家から、”東京では都市化が進んで養鶏業が続けられない、埼玉県に移転したい”という声をお聞きします。その方を、地元の土地を売ってもよいという農家に引き合わせ、移転を成功させました。松井産業が『不動産業』と出会うきっかけでした。さらに、1973年にはJR(当時は国鉄)武蔵野線が開通し、三郷市・吉川市から都内へと通うサラリーマンも増え始めました。ニューファミリーのマイホーム建設、アパート経営を始める大家さんの需要も増えます。次第に『建設業』『不動産仲介業』に軸足が移り、飼料や鶏肉・卵の販売からはやむなく撤退します。これも時代の趨勢に合わせた、次のイノベーションです。

私は父の命令で、肉屋から呼び戻されました。そして建築士、建築施工管理技士、土木施工管理技士、宅地建物取引士といった資格を、必死で勉強して取得しました。新しい事業分野に挑戦するためには、その分野で専門知識があることを客観的に証明して、お客様やお取引先様に信頼・安心していただくことが、どうしても必要だったからです。21世紀に入ると、地域の課題に「少子高齢化社会」が加わります。グループ内に社会福祉法人を設立し、介護施設を開業しました。この時も、まず自分自身で介護福祉士やケアマネージャーの資格を取得したことが、経営判断のベースとなりました。

これから社会に出る若者へ

松井産業は間もなく創業95周年を迎えますが、こうして振り返ると、その歴史は『本業』さえ次々と変えてしまうという“イノベーション”の連続です。一貫してきたのは、地域の住民=お客様が、これから何を“生業(なりわい)”として生きるのか、その暮らしをお助けするために、松井産業は今、何ができるのか。地域の人に尽くす、ただその想いだけです。米農家。養鶏農家。サラリーマン。時代とともに、この地域の人々の“生業”は変わりました。そして今、サラリーマンとして大企業に勤めれば、定年まで一生安泰という時代も終わりました。これからは、“一億総中流”ならぬ“一億総起業家”、“一億総経営者”の時代ではないでしょうか。私の次の目標は、ここ三郷市・吉川市で、100人の社長、100人の起業家を育てることです。1人が例えば5億円の新事業を起こせば、この地域に500億円の産業が生まれます。それがこの地域における、新時代の“生業”になります。私は今、起業家を目指す人財、勇気ある挑戦者を育てるため、社内研修や地元の商工会等で『経営塾』『100年塾』を開いています。そこで経営計画の立て方など、今まで私が学んできたこと、経験してきたことを伝えています。