s_株式会社Lavoc
代表
平田啓

株式会社Lavoc 代表

実家の1室が音大ピアノ科卒の母親が営むピアノ教室という環境で育つ。その母親に音楽を仕事にすることを反対され続け、金融プロフェッショナルの道を歩んだ。1993年株式会社日短AP(現セントラル短資)に入社し、通貨オプションブローカーとして業界トップの成績を収める。95年に米ウォール街のオプション専門会社B.C.M.Gよりヘッドハントされ渡米。98年にボストン大学MBAへ自費留学。帰国後、現三菱東京UFJ銀行、金融情報会社ブルームバーグで活躍。その傍ら、2003年下北沢にボーカル教室を創業。2012年新宿に2校目オープン。2014年から英語教育事業をスタート。2016年に渋谷に3校目をオープン。

現在の仕事についた経緯

帰国後仕事も落ち着いてきた頃に、学生時代少しやっていた音楽【歌】をまたやりたいと思うようになりました。そこで、ボーカル教室の体験レッスンをいくつか受けに行ったのですが、2002年当時はプロ目指す若者が通うスクールしかなく、今さらプロを目指す気もないものの、そこそこ本気でやりたいなという思いから、自分が通いたいと思う教室を作ろうと思うようになりました。母親も後押ししてくれたので一念発起。ただ、母の教え通り、音楽事業を本業にすることはありませんでした。しかし、2011年の東北大震災で思いは一転。震災直後はレッスンどころではなく、廃校も一時は覚悟しました。すると、『こんな時だから歌わせて下さい』と生徒さんからの声が。4月に予定していた発表会では、みんなストレスが溜まっていたからか、異様な盛り上がりを見せ、音楽の力を改めて知らされました。 この時に、音楽を一生の生業にしようと決めました。

仕事へのこだわり

『決めた目標から目を離さない』です。私が大学に入学した頃はバブルの余韻がたっぷり残っている時代で、金融業界特に大手証券会社に就職で出来れば30歳で年収1,000万円は当たり前でした。しかし、自分が就職活動した92年は就職氷河期の初年度のような年で、30歳で年収1,000万円という夢を見ることも難しくなっていました。それでも、30歳で1,000万円には必ず到達していたいと思って頑張った結果、32歳で年収1,000万円になりました。個人で始めた音楽事業も軌道に乗り、一時は年収2,000万円にもなりました。 但し、そこまで到達してみて、個人的な成績・年収を目標にすることにむなしさを感じるようになったのです。それからは、夢のある仕事を仲間と成功させたいと思うようになり、今では子どもも授かったこともあって、自分の人生で良かったと思うことは子どもに伝えて行って、『我が子への愛情』をビジネスでカタチにしていこうと考えています。

そして、今の目標は『自分がバイリンガルになれた音楽を使ったメソッドで、我が子をバイリンガルに導いてあげること。それを多くの子どもたちにも伝えて、大勢のバイリンガルを輩出するお手伝いをすること。そして日本の英語教育に革命を起こして上場すること。』です。現在、この目標に向かって、オリジナル教材を作っています。基礎英単語と日常英会話フレーズを歌詞にして、現代風ポップス調で作曲して、ヒップホップ・ダンスの振付を付けました。 この30曲を歌って踊れるようになったら、英語とダンスの基礎が出来ている画期的なカリキュラムです。このカリキュラムで是非今の目標を達成したいと思います。

これから社会に出る若者へ

『若い頃の苦労は買ってでもしろ』と言います。20代の頃、苦労させてくれた先輩・上司・会社・環境に今ではとても感謝しています。入社1年目は朝6時出社、夜9時退社だったので、1日15時間勤務。 就寝は10時、起床は4時という生活でした。 週末出勤はありませんでしたが、外資系に務めていたので、英語の話せなかった私は週末は英語の勉強をしていました。 1日丸っきりオフという日はほとんどなく、留学資金の1,000万円を貯めるために、生活もカツカツでした。 外資系とはいえ、新人の手取りもせいぜい22~23万円で、その中から毎月15万円貯金しました。 こうした生活をボストン大学MBAを卒業するまでの7年間経験したことによって、今でも毎日寝る時間と食事の時間以外は全て仕事という生活が普通に思えます。

20代は1日15時間働いていたので、今でも毎日10時間以上働くことは全く苦になりません。仕事における成功は、素質よりも量で決まると思います。人より多く働くことで得られた成功は大いにあるんじゃないでしょうか。30代で二度体を壊したので、週に1回は休むようになっていますが、大人になったら仕事で社会貢献することが第一なので、20代での経験は間違いなく財産となっています。すすんで苦労して、大きな成功を掴んでください。